日本国内のGAP
日本における農産物流通ビジネスの業界では、2000年頃から大手スーパーマーケットが欧州の農場認証制度に学んで、試験的に自社版GAPと称する農場の監査基準書を作成してきました。生協グループも、これまでの産直野菜の栽培基準を修正した農場評価規則を提案してきました。これらの相談を受けながら2003年にEUREPGAP認証の支援に取組んだ㈱AGICは、2004年にJGAP認証制度を開発し、2005年に認証を開始しました。
国の政策としてのGAPは2005年で、農林水産省の消費安全局農産安全管理課から「食品安全のためのGAP策定・普及マニュアル」という消費者起点に立った、農家に対する農産物栽培要求事項とでもいうべき方策が出されました。
5年後の2010年には、生産局技術普及課から「農業生産工程管理(GAP)の共通基盤に関するガイドライン」が発表され、「食品・環境・労働関係法令等の内容に則して定められる点検項目に沿って、農業生産工程の正確な実施、記録、点検及び評価を行うことによる持続的な改善活動」と定義されました。
その後2014年には「GAPの見直し」が閣議で決定されて農林水産省の「GAP戦略協議会」で「国際的に通用する規格の策定と我が国主導の国際規格づくり」が検討され、翌2015年にGAP政策担当部門は生産局農産部農業環境対策課に移管されました。ただし、ここで注意しておかなければならないことは、閣議で議論されたGAPは、GLOBALG.A.P.などの流通業界が行っている農場認証制度のことだったという事実です。従って、その後2021年に「国際水準GAPガイドライン」が策定され、SDGsを意識し、人権保護や経営管理を加えた持続可能性を確保するための農業生産工程管理も、認証制度を意識したものです。
やらされ感のGAP
当初農林水産省が政策として取組んだのは食品安全に限定したGAPでした。目指したのは、地域ごとに認証制度をつくる、トマト、キウリ、ナス、コメなどの作物ごとにGAPという商品認証(チェックリスト)制度を作るという政策です。
その後「農業生産工程管理」という名称になり、その内容は、「点検項目に沿って農業生産工程の正確な実施、記録点検及び評価を行うことによる持続的な改善活動である」という公的なGAPの定義付けがなされました。GAPの効果に基づく定義としては「食品の安全性向上、環境保全、労働安全の確保などに資するとともに農業経営の改善や効率化につながる」とされています。
しかし、これでは農場管理システム論のようで、農業管理に関心が薄い農家にとっては、外部からの圧力要求のような感じ(やらされ感)になるのではないでしょうか。農業者は自分でコントロールすることが多い仕事を日常的にしていますから、特にそう感じると思います。欧州の農家のように、「近代農業が抱える環境問題を自らのテーマとして取り組むGAP」という認識があれば、主体的なGAPが期待できるのではないかと思います。
日本では、当初よりマスコミ報道の手伝いもあって「農業生産工程管理」が定着していますが、世界のどこでも「Agricultural production process management」のような意味づけをしている例は見たことがありません。「それってどうなの?」という議論がありますが、現在でもその名称は変わりません。2021年にオリンピック(2020東京大会)が終わると「国際水準GAPガイドライン」が発表され、この段階ではGAPの目標に農業環境対策が大きく占めるようになりました。政策担当は当然ながら「みどりの食料システム戦略」と一緒にGAPも取り扱っているということですから、SDGsを意識した「環境再生型農業」へのシフトに期待したいです。
実効性のない農業環境政策
持続可能な社会に向けて世界が動き出した1992年の国連環境開発会議(地球サミット)の翌年、日本は環境立国を宣言し、農業分野では「化学農薬や化学肥料の節減」、「家畜糞尿の適切な管理」、「農地周辺の生態系の保全」、「林業・水産業における適切な資源管理」などを掲げています。また、農業の基本法として約40年ぶりに大改訂された「食料・農業・農村基本法(1999年)」は、「食料の安定供給、農業の多面的機能、持続的農業、農村振興」を基本理念とする大きな転換でした。さらに、2005年3月の閣議決定では、農業者が環境保全に向けて取り組むべき最低限の規範として「環境と調和のとれた農業生産活動規範」を策定しています。この政策では、補助金による支援を「クロスコンプライアンス」としましたが、同年に実施されたEUのクロスコンプライアンスとは内容も実態も異なり、日本では「作物生産点検の手引き」で農業者が自己点検するというものでした。
作物生産で環境との調和を図るための取り組みの指導書でも、EUとは大きな相違点があります。例えば、土壌管理において堆肥は推奨していますが、EUが義務付けている輪作やカバークロップなどには触れていません。また、施肥の指導にはEUのような法定要件がないこと、そのため都道府県やJA等が示している施肥量を守ることを推奨していますが、これらの施肥規準は地域ごとに作成される任意の規準であり生態学的根拠は示されていません。さらに農家によっては基準の施肥量に"保険"をかける意味で多めの施肥をします。GH農場評価でよく見かけるのは、土壌診断結果で化成肥料を投与した圃場に、家畜フン堆肥を投与していたが、総量は考慮していなかったというような次事例です。化学農薬の使用に関して指導書では、予防措置について記述したうえで、必要な農薬を効果的に使用することが重要視されていますが、IPM(総合的病害虫・雑草管理)を具体的には指導していません。
プラネタリーバウンダリー
スライド7は、地球上で人間が安全に生存できる範囲を科学的に定義してその限界点を表した概念図で、「地球(惑星)の限界」といわれています。地球温暖化などの人類の難題を考えるヒントとしてSDGsなど様々なところで活用されています。2009年に発表されて、私は2015年版で確認したのですが、「窒素とリンの生物地球化学的循環」が、もう元には戻れない高リスクな状態になっていることに、とんでもなく驚きました。
窒素とリンは、農業生産になくてはならない大切な物という認識ですが、総務省や環境省による水質の硝酸塩汚染への警鐘などもあり、GAPの指導では特に重要視している資材でもあるのです。生物地球化学的循環の総量で農業による原因がどの程度を占めているのか、正確な数値は把握していないのですが、河川や湖沼などの調査では欧米でも日本でも他産業より多いことが明らかにされています。
持続可能な農業のためにGAPを推進しているのですが、窒素とリンが不安定な領域を超えて高リスクになってしまったこと、農業と関係が深い生物多様性や生態系機能の低下なども高リスクに達している、ということでこれらについてのSDGs(持続可能な開発目標)は見つからないのか?なんとかして安全な領域まで戻せないのか?などと考えさせられてしまいます。
農業のパラダイムシフト「みどりの食料システム戦略」
日本では、米欧の戦略発表があってからわずか1年後に「みどりの食料システム戦略」が策定されました。日本の農業関係者が熟考した知恵の結晶とは思えない、EU戦略に酷似した内容です。EU加盟国では農民の激しいデモが行われましたが、日本では農業者や農業者団体との十分な話し合いはあったのでしょうか?社会的に大問題になったという記憶はありません。食料・農業・農村基本法の見直しも進められているようですが、結果的に政策に従うにしても、それならどうすれば持続可能な農業が実現できるのか、自分のこととして本気で考えなければならないと思います。
「みどりの食料システム戦略」は世界のGAPステージに合わせて動き出したのですから、関係者は取り組まざるを得ない。しかしそれが横道に逸れないかどうか、私たちは様々な角度から意見を言っていかなければいけないと思います。その方向は、「自然の力を最大限に活用して、土壌や作物の生命力を引き出す農業」に向かっていくことです。
虫が出たから農薬をやる、栄養が足りないから肥料をやる、水が足りないから潅水するという対処療法の農法ではなく、根本的な解決策に向かう新たな農業です。20世紀後半からの60年間に、飛躍的に農業生産を挙げてきた工業的農業から脱却することです。土壌そのものの活力、作物のもつ本来的な生命力が十分に発揮できるような循環というものが、自然の力を最大限に活用する、環境再生型農業だと思います。
「世界土壌資源報告」 SDGsと同根の世界土壌憲章
GAPステージ3段階の農業の新たな概念を考える重要な情報があります。持続可能な開発目標「SDGs」と同じ2015年に国連で策定された「世界土壌憲章」で、「適切な土壌管理は食料安全保障、気候変動への適用と緩和、生態系サービス、貧困撲滅及び持続的な発展に寄与するものである」という宣言です。
土壌資源の科学的評価を行った「世界土壌資源報告」では、世界中の土壌を細かに調べて、その実態分析と今後どうあるべきかの提言をしています。それは、「これからの適正農業(GAP)は、土壌の修復改善をしながら自然環境の回復につなげることを目指す環境再生型農業である」という結論です。
土壌管理というのは農業そのものですから、農業が健全であるためには、適切な土壌管理である必要がある。そういう適正農業つまりGAPは、土壌を修復改善しながら、自然環境の回復に繋げることを目指す環境再生型農業であるということになります。世界のGAPステージ3は、まさにこのような農業になるのだと思います。
投入資材による食料増産は破綻する
世界土壌資源報告では、世界中の実態調査の結果、「20世紀の地球規模の土壌変化を起こした要因は、異常なまでの人口増加と経済成長、これらに付随した農業革命である」と分析しています。1961年から2000年の間に、世界人口は2倍になりました。食料生産は2.5倍になっています。この間に耕地面積は8%しか増加していないのですから、生産増加の理由は劇的に増加した農業投入資材ということになります。窒素の投入は7倍、リンは3倍、灌漑水の利用は2倍になっています。このことから、報告書は「農業資材の投入量を増加させて食料生産を上げるという従来の戦略には問題がある」と結論付けています。
問題は、さらに世界人口が増加することは明らかですから、投入資材によって食料の生産性を上げるという農業モデルは破綻するということです。近代農業の体系となっている工業的農業から、自然の力を最大限に活用して土壌や作物の生命力を引き出す本来的農業への「農業のパラダイムシフト」が必要であることを示唆しています。
GAPは環境負荷低減型農業から環境再生型農業へ
農業の工業化を中心とする農業近代化は、同時に化学肥料・化学農薬の不適切な使用・管理で、土壌や水質を汚染しました。工業的農業では、投入農業資材の他に化石燃料への依存度も多くなり、二酸化炭素、亜酸化窒素、メタンなどの温室効果ガスの排出源にもなっています。このような土壌汚染、水質汚染、温室効果ガスによる大気汚染をもたらす農業・農法は不適切な農業(Bad Agricultural Practice)つまりBAPという概念になった訳です。したがって、BAPではない農業・農法を実現しなければなりません。BAPの反対の農業概念は適正農業(GAP:Good Agricultural Practice)ということになります。つまり、GAPを規定するのはBAPなのです。そのため今は、環境を悪化させているBAPを無くして環境を保全する農業への転換が行われなければならないとうことです。
欧米各国では農業投入物の法的制限などで規制を厳しくするとともに、GAPへの行動変容を示唆する適正農業規範(CoGAP)策定と行動支援の補助金支払いなどが、1980年以降の農業環境政策でした。
ところが、GAP概念が誕生して40年で、これまでGAPだった「環境負荷低減農業」が、これからはBAPになるという事態に至りました。プラネタリウムバウンダリーによって、これまでの農業分野の環境対策を転換しなければならないことになったのです。この環境負荷低減型農業の対語を環境再生型農業として「リジェネラティブ農業」の概念を明らかにすれば、「自然の力を最大限に活用して土壌や作物の生命力を引き出す本来的な農業」をGAPとすることができます。
おわりに
私ども日本生産者GAP協会のスタッフは、リジェネラティブ農業の専門家ではありません。これからのGAPの研究・実践の対象として、今回のGAPシンポジウムで専門家の話を聞いて、勉強しながら足元の実態、あるべきGAPの具体化について考えていくわけであります。
この分野で世界的に有名な日本の先駆者、福岡正信の『わら一本の革命』をだいぶ前に読んだのですが改めて読み返しました。自然の循環と調和を尊重する「自然農法」について頭で理解はできている気がするのですが、「何もしない農法」を実行することの難しさを改めて感じたところです。ところが、同じカテゴリーの(と思われる)、ゲイブ・ブラウンの「土を育てる」を読んだ時には共感することがとても多く感じられました。特に驚いたのは、「土をかき乱さない、多様性を高める、それから土壌中の生きた根を保つ、動物を組み込む」ということをわかりやすく説明していることです。
温室効果ガス削減の視点から、大気中の炭素や窒素を地中に取り込む「カーボンファーミング」についての議論もされていて、この分野の話題が様々なに広がっています。『わら一本の革命』の強調するところが精神論であったり哲学であったりしていたものが、『実践ガイド 生態学的土づくり』に書かれた米国の多くの事例を読むことによって、いわば論理的にというか、私の理解力でもわかるような説明に置き換えられたような気がしています。農業生態学的説明と私は思っております。アメリカで実践されている多くの事例が掲載されている『BULDING SOILS FOR BETTER CROPS』という本を、どうしても翻訳して、日本語で皆さんと共有したいという思いで『実践ガイド 生態学的土づくり』の出版に至ったということです。
アグロエコロジーは、農業生産を通じて土を良くし、生態系を保っていく、それで生産性も上がる、病気に強いものを作る。つまり環境保全と収量増加とを同時に達成する一つの農法と考える。その点で有機農業は、化学物質を投与しないという一点に尽きるわけで、多くの人は耕起をする農業です。そのため土壌中の動物や微生物の活動を阻害して物質循環を攪乱することになりますので、生態学的土づくりにはならないことが多いと思います。不耕起の農業で重要なカバークロップですが、いかにすごいか圧倒されたことを皆さんにお伝えして、GAPの概念を、まさに生態学的な土作りをする農業がGAPであること、そしてGAPである生態学的農業を普及させることで、SDGsの成果に繋がるということを期待して終わります。ご清聴ありがとうございました。
2024/4