1 はじめに
近代農業が環境に与える影響を最小限に抑えて土壌や生物多様性を保全するために、米欧を中心とした各国政府は、農業投入物の法的制限や、適正農業(GAP)規範による行動規制と補助金制度などを実施してきました。しかし、21世紀になると人間が地球環境に及ぼしている様々な影響のいくつかは、人間が安全に生存できる限界点を超えていることが明らかになり(プラネタリー・バウンダリー)、これまでのように、成長のマイナス面を補って環境を保全するだけでは地球環境の破滅的変化は避けられないということになっているようです。
そのため、2020年を境に世界各国の農業政策は、食・農・環境と経済・社会を一体的にとらえた国際戦略によって、生産性向上と同時に土壌の回復、生物多様性の助長、気候変動にも対応するという目標を立てて政策の大転換を計画しています(みどりの食料システム戦略など)。そこで注目されるのが「環境再生型農業(またはリジェネラティブ農業)」です。不耕起栽培、被覆作物、輪作、合成肥料不使用などによる統合的な農法ですが、それぞれは目新しい農法ではありません。むしろ不耕起栽培を除けば、脳裏に残る昔ながらの農法そのものです。しかし、改めて「農業生態学(アグロエコロジー)」的な説明を受けてみると、自然の力を最大限に活用して土壌や作物の生命力を引き出す「本来的農業」と近代農業の体系となっている「工業的農業」との間で生まれてきた様々な矛盾の解消への答えが見えてくるようにも思えます。
「人類の永遠の課題である人間活動と自然環境との調和を目指す」日本生産者GAP協会の本旨として『実践ガイド 生態学的土づくり』を出版しました。これを機に、適正農業(GAP)として期待される農業・農法を再確認し、ここに至る背景や科学的根拠などについても理解を深めたいと思います。
2 『実践ガイド 生態学的土づくり』とは
BUILDING SOILS FOR BETTER CROPS ECOLOGICAL MANAGEMENT FOR HEALTHY SOILS FOURTH EDITION BY FRED MAGDOFF AND HAROLD VAN ES
山田正美 訳
発行 一般社団法人日本生産者GAP協会 2023年11月
本書は生態学的な土づくりに関する他に類を見ない実践的なガイドブックです。土とは何か、有機物の重要性などの詳細な背景とともに、カバークロップ、家畜糞尿、堆肥などを用いた土づくりの実際について基礎から応用まで段階的な情報を提供していますので、農家、新規就農者、学生、普及員、研究者、あるいは持続的農業に興味のある市民がいつでも調べられるよう手元に置いておきたい一冊です。
本書では、地道な科学的研究結果の積み重ねによって得られた生態学的手法を用いた土づくりが解説されています。生態学的土づくり手法といっても何も難しいことはなく、基本は自然の営み、例えば何百年と続いている草原の植生などにその解決方法を見出すことができます。草原は機械で耕起されなくても有機物を蓄積し、多様な土壌生物を育み、十分な水を保持できる団粒の多い膨軟な土壌を形成し、必要な養分を供給する能力を持っています。もちろん自分の農場への適用にあたっては、気温の高低、降雨の多寡、土性の違い、作付けシステムなどを考慮し、基本原則を理解したうえで、試行していくことが重要となります。(一般社団法人日本生産者GAP協会 専務理事 山田正美(翻訳者))
3 『実践ガイド 生態学的土づくり』 を必要とする背景
- わら一本の革命(自然に還る)
「田も耕さず、肥料もやらず、農薬も使わず、草もとらず、しかも驚異的に稔った」と説いた福岡正信の著書『自然農法 わら一本の革命(1983年)』には、大きな驚きと強い感銘を受けました。しかし、「自然農法はキリストが着想し、ガンジーが実践した農法とみてよい」、「無の哲学に立脚するこの農法の目標は神への奉仕にある」という教えは、浅学菲才の筆者には到底理解に至りませんでした。日本の農業の現場においても政策においても農業研究の課題としても、自然農法が主流になることはありませんでした。
- 環境保全型農業
同時代の1980年代には農業由来の環境汚染が世界的な問題となり、各国の政策は「環境保全型農業」を目指すようになりました。特に欧州では、環境規制とクロスコンプライアンス等で土・水・空気の保全が義務付けられました。そのために窒素やリンなどの過剰投与を抑え、農法としては堆肥の施用やカバークロップなどが推奨され、農産物市場と生産現場は減農薬・減化学肥料へと向かいました。
EUでは、1991年に硝酸塩指令や植物保護指令が施行され、GAP(グッド・アグリカルチュラル・プラクティス)が「持続可能な農業」を目指す農業者のマナーとして定着しました。
- 持続可能な農業のためのGAP
西洋の生活文化の精神的な背景には、人間に対する「環境への責務(環境スチュワードシップ)」の思想があり、環境保全型農業のための行動規範としての「適正農業規範(コード・オブ・グッド・アグリカルチュラル・プラクティス)」が、農業関係者にスムーズに受け入れられたようです。
そのため、GAP政策のアウトカム(結果や成果)として、EU加盟国における1990年代から2000年代の農産物単収の伸びに比べて、圃場への窒素投入の量は明らかに減少しています。
- 食品安全認証GAP
同時代の日本の農政においても「環境保全型農業」推進の方向性は同じでした。しかし、農業資材使用に関わる具体的な環境規制や環境汚染を避ける効果的な措置を指導する適正農業規範はなく、また、GAP政策は農産物流通における食品衛生管理が中心的な課題になっていたため、農業環境政策のGAPとしてのアウトカムは明らかになっていません。
2000年以降は、米欧への農産物輸出にGAP認証が要求されるようになり、国内でも「2020東京五輪」の組織委員会が調達する農産物商品に要求されたことから、農林水産省が主導して、食品安全、環境保全、労働安全、人権保護、農場経営管理等がGAPの要件とされました。
- みどりの食料システム戦略
こうした状況下で2021年に農林水産省は「みどりの食料システム戦略」を策定しました。様々な産業でSDGsや環境への対応が重視されているので、食料・農林水産業においても、生産力向上と持続性の両立をイノベーションで実現するという目的です。そのために2050年までの重要業績評価指標(KPI)を、化学農薬の使用量をリスク換算で50%低減する、化学肥料の使用量を30%低減する、耕地面積に占める有機農業の取組面積を25%,100万haに拡大する、などとしました。この戦略が目指す姿は、EUの「Farm to Fork戦略(F2F)」に強く影響を受けています。
- 1) EUのFarm to Fork(F2F)戦略
- EUのF2Fは、食料の生産、加工、流通、消費までを一体として、共に公平で健康な食料システムを構築することを狙いに2020年に策定されました。目標の達成期限は、日本より20年早い2030年です。同時に「生物多様性戦略(Biodiversity strategy for 2030)」が策定されています。この2つの戦略は、欧州グリーンディールの中核をなすものとして位置づけられました。(日本では「生物多様性国家戦略2023-2030」が2023年3月に閣議決定されています。)
- 2) 米国の農業イノベーションアジェンダ(2020年)
- 2020年、米国では農業生産量の40%増加と、エコロジカル・フットプリント(人間活動の環境負荷)の50%削減を、2050年までに同時に達成すると計画しました。そのための課題として土壌の健全性や農業による炭素貯留の強化に取組みます。また、技術開発を主軸に2030年までに食品ロスと食品廃棄物を50%削減することが目標です。農業イノベーションのキーポイントはアグロエコロジー(農業生態学)です。
- アグロエコロジー(農業生態学)
GAPでは、農業由来の自然破壊や環境汚染を、近代農業に関連する影の部分と位置付け、リスク・コントロールで改善解消することが目的です。しかし、アグロエコロジーは、近代農業が工業化によって引き起こした循環的生態システムへの悪影響を回復させることに繋がるようで、これによって農業のパラダイム転換を促進する可能性がありあります。
国連食糧農業機関(FAO)は、現行の資源多投入型農業の限界を指摘し、土質を改善して環境を保全する持続可能な食料システムとしてアグロエコロジーを呼びかけています。地域資源を利用し、不耕起、被覆作物(カバークロップ)、輪作を組み合わせた農法です。
- アグロエコロジーと有機農業
アグロエコロジーは、単に化学肥料や農薬を使わないだけでなく、土壌とそこに住む多様な生き物に注目して耕起を控え、持続可能な農業を目指します。生態系と調和を保ちながら作物を育てる方法で、作物を病気に強くし、作物の収量増加や二酸化炭素を土壌へ貯留する効果が期待できます。
一方の有機農業は、化学肥料や農薬を使わずに、有機物を含む肥料を使用することで、持続可能で安全な農産物を供給することを目指しています。国際的な有機農産物表示ができる認証基準が「3年以上化学農薬・肥料を使わない」になっているため、農薬などを使わない産業的な大規模単作が増え、逆に地域の生物多様性や土壌に悪影響を与える有機農業の事例も出ているといわれています。
- リジェネラティブ(環境再生型)農業
環境再生型農業は、農地の土壌を修復・改善しながら自然環境の再生を促す農業のあり方です。従来の農法との大きな違いは、圃場を耕さずに農産物を育てる「不耕起栽培」です。耕さなくても元気な畑であるために作物を輪作することが推奨されています。植物が地中に蓄えてきた窒素を栄養分として活用すれば、化学合成肥料に頼る必要がなくなり、その結果土壌中の有機物に悪影響を及ばさずに済み、農地の劣化を防ぐことにもつながるという理にかなった生産方法です。
- 土を育てる(自然環境の回復)
「植物や土壌生物の力を生かし、土の生態系を回復することで、大気中の炭素や窒素を地中に取り込む。それによって作物の育ちは良くなり、同時に気候変動の抑制も果たされる(温室効果ガスの削減)」というカーボン・ファーミングの手法を実証した米国の農家ゲイブ・ブラウンは、著書『自然をよみがえらせる土壌革命 土を育てる(2018年)』で日本でも有名です。
著者は「日本の農哲学者、福岡正信から多くを学んで影響を受け、『自然農法 わら一本の革命』は、リジェネラティブ(環境再生型)な農法を模索するなかで、わたしの大きな支えとなってくれた」といっています。
4 まとめ
- 「みどりの食料システム戦略」は農業のパラダイム転換をともなう
福岡正信の『わら一本の革命』とゲイブ・ブラウンの『土を育てる』は、同根の農法です。福岡正信は、自然の循環と調和を尊重する「自然農法」です。別の著書では、自然農法は「無の哲学」に基づいており、その中では「無為自然」、つまり何もしない農法と生き方を説いています。
ゲイブ・ブラウンは、「土をかき乱さない、土を覆う、多様性を高める、土の中に"生きた根"を保つ、動物を組み込む」という5原則(のちに自然に沿うという"背景の原則"を加えた6原則)を実践しています。こうして土壌の健康を回復させることで、環境にも経済にも良い影響をもたらす農業で、「収量よりも収益」を重視した経営を推奨しています。
農業における「土壌に命」を位置づけた福岡正信とゲイブ・ブラウンに、農家でもある筆者は、深い感銘を受けました。二人とも農業由来の環境汚染を強く意識したところから、農業の実践を通して「積極的に環境(土壌)を再生していくやり方」に行きついたことです。
両者の持論(哲学)に対する筆者の受け止め方(感じ方)に違いがあるとすれば、「自然に還る」という福岡の哲学が農業及び自然を対象として見るのではなく、自分自身も自然の一部であることを意味していたのに対して、ブラウンは、農業を自分自身が観察し働きかける対象としているために、客観的に「自然環境の回復」という行動を起こしたのだろうということです。ブラウンは著書の最後を「神から与えられた体なんだ」から、自然に対して適切な「行動を起こさなければ!」と締めくくっています。まさにスチュワードシップ思想です。
筆者を含め現在の多くの日本人は、スチュワードシップ思想は持ち合わせていませんし、八百万の神が宿る自然との一体性を感じることの方が多いように思います。しかし、こと地球環境と農業問題に対してその解決策を考えるということになれば、納得できる科学的な説明が必要です。プラネタリー・バウンダリーの論文や適正農業(GAP)規範の解説、およびそれらに基づく新たな農業・農法の政策は、科学的説明による合理的な対策でなければ農家の行動変容にはならないでしょう。
本稿で振り返ってみた適正農業(GAP)の変遷では、「環境保全」は修正し補完する農業、「持続可能」は現状を維持する農業、「食品安全」は問題なしを保証する農業ということで、農法としてはいわば消極的な対応姿勢といえます。しかし、福岡やブラウンらがたどり着いた生態学的(エコロジカル)な農法は、自然環境と調和するために、環境をより生き生きさせるという意味で、積極的な姿勢です。
このような理論と実証が世界の農業現場に登場して共感を得ていたことが、地球環境問題の切り札として計画されたこの度の米欧の農業戦略大転換に繋がっているのだろうと思います。当然、わが国の「みどりの食料システム戦略」も、生産性向上と同時に、土壌を回復して、生物多様性を助長し、気候変動にも対応する、という農業のパラダイム転換が必要です。そして、これまで一世を風靡してきた工業的農業の論理に対して、アンチの最大の説得力を持つのが「農業生態学」ではないかと考えています。『実践ガイド 生態学的土づくり』は、その科学的説明に基づいた全体的な理解と実践事例によって、農業のパラダイム転換を促進する一助となるでしょう。
2024/1