『環境負荷低減型農業から環境再生型農業へ』
-農業の理念とGAPを考える-
GAP普及ニュース79号(2024/7)掲載
田上隆一 一般社団法人日本生産者GAP協会 理事長
第二次農業革命を目撃
農業が近代化される以前、私は中堅規模の農家の跡取りとして生まれ、子供の頃は馬の鼻先で手綱を取って父親のカルチかけを手伝いながら、将来は自分も父親のような「立派な農家になること」を夢見ていたものでした。1951年1月生まれなので、10歳代となった1960年代には化学肥料の登場や品種改良などで農法が変化し、農業の概念や農村の様子もがらりと変わって第二次農業革命ともいわれる時代でした。61年には農業基本法が施行され、農業構造の改善と農家の所得向上を目指す生産性向上とが大きな目標でした。まさに農業のパラダイムシフトが起こった時代に物心がついた頃で、それらの変化の様子を見て育ってきたということです。
50年代までは当たり前に有機農業で、化学農薬や化学肥料などは使っていませんでした。作物の栄養源には厩肥や堆肥を中心に河川敷の草土や人糞、購入した魚粕など様々な有機質資材を使って農作物を栽培していました。「農業とは耕すこと」であり馬耕が農家・農業の規模を決定するものでしたが、60年代には一般農家でも田畑耕耘の機械化が進み、それは子供の目にも最もインパクトのある変化でした。その他、収穫調製作業なども機械化され、さらに外部からの投入物である化学肥料や農薬など、またプラスチック施設、種苗の施設など、農業の工業化への大転換がありました。
農協ではできない農業改革
そうなると私が農業に就こうとするころには我が家の耕作規模では小さ過ぎて経営が成り立たず、立派な農家になる夢は叶わぬものとなったのです。しかし別の道に進むと考えても、一定規模の水田と農業設備の維持を考えると、70年代の跡取り息子の選択は「兼業農家」ということになりました。地元の農業協同組合に17年ほど勤務し、共済課長、電算課長、企画管理室長、管理課長などといろいろな業務に携わってきました。
それぞれの部署で新たな事業や改革に取り組むことが面白くて長くいたのですが、80年代の終盤になると、「農業がこのままではいけない」という思いが一層強くなり、「農協ではできない農業改革をしたい」と大学や農業研究機関の研究者らと、1989年に「農業情報学会」(設立当初は農業情報利用研究会)を設立して農協内に事務局を設置しました。
閉塞状態の地域農業の突破口を開きたいと考えたのです。農協事業としてパソコン通信ホスト局「夢来ネット」を開設して都市と農村の交流促進を図りました。果樹園の微気象観測システムや農産物販売の産直システムも開発し、それらの実践成果を記述した『村のネットワークが農業を変える(日経出版)』という著書も出しました。その後、コンピューターと通信システムを活用した地域農業振興に専念しようと思い、株式会社AGIC(アグローインフォメーションコンサルティング)社を創設して「農業情報コンサルタント」という職業を自ら開始し、同時に学術活動の一環としてフォーラムや関連図書の出版などを行ってきました。農業情報学会は、現在、創設35年を迎えて研究者会員も増え、農業とコンピューターの学会として活躍しています。
欧州の農業規範と日本の生産現場
AGICでは、データベースやネットワークを駆使した農産物流通や食品安全に関するシステム開発で、海外の学会やビジネスシーンにも関わることがありました。そんな中、欧州に日本の農産物を輸出するための販売促進のコンサルティング過程で、英国のバイヤーから「あなたの流通ネット(ヴァーチャル)は素晴らしいが、生産現場のコントロール(リアル)はどうなっているか」と問われることがありました。英国最大のフルーツ卸売会社EWT(エンパイヤー・ワールド・トレード)社からの問に、私は、「日本の生産者は優秀だし行動規範はレベルが高い」と応えたのですが、実際にEU各国の農産物生産流通の現場を視察した結果、欧州のそれと比較すると日本の現場は足元にも及ばない状態だということを知らされました。
欧州の農業者は明文化された行動規範(コード)に従うことで農業所得補償を受取り、また、行動規範を遵守する農業者が農産物取引上の信頼を受けていたのです。日本にはそのような「適正農業規範(GAP規範)」はなく、従って規範教育がありませんでした。英国の適正農業規範によれば、「GAPとは、天然資源を保護し経済的に農業が継続できるようにしながら、汚染を引き起こすリスクを最小源に抑える実践である」という理念に基づいた農業実践のことです。 欧州では、産業革命にともなう苛烈な環境破壊の反省から強い責任意識を持つようになり、さらに第二次農業革命後の土壌や水質の汚染が人間や生態系の健全性を阻害することへの関心が高まり、環境保全型農業がEU共通農業政策の柱になるとともに、加盟各国でGAP規範が整備されたのです。
しかし、そのような認識がない日本においては、欧州に習ったGAPであるにも関わらず、農業政策やマスメディアによって、「GAPとは農産物販売のための食品安全管理手法(GAP認証)である」と紹介されてきました。そのためか、工業化された農業が地球環境に多くの悪影響を与えているという認識が希薄であり、同時に、それらの課題解決のための行為がGAPであるという理解が進まない理由の一つであると思います。 それだけではなく、GAPの目的の一つである食品安全管理の面においても、日本は欧州と格段の差がついています。組合員を統括すべき農協としての管理・統制(GAPコントロール)もありません。さらに、サプライヤーとしての農協選果場は「HACCP」どころか、「一般的衛生管理」の概念すらなかったのが現実でした。
持続可能な食料システムという国際戦略
欧州のチェーンストアは、自社ブランドの商品価値を高めるために90年代から農産物第一次サプライヤー(出荷者)に生産段階の農場監査を義務付けて来ました。後に「GAP認証がなければ取引をしない(2005年より)」というEUの業界標準となり、今でいうところのグローバルサウスからは「GAP認証が不公正な取引に繋がる」と訴えられた例もあります。しかし、今では農場保証制度の監査基準(GAP認証)は、生産国の環境保護や農業労働者の人権保護に資するという評価がグローバルな支持を得ることとなりました。 また、GAP認証制度のスキーム運営側も、時代の価値観を反映する地球環境や持続可能性に重点を置いた形での基準改定(2020年,GLOBALG.A.P.など)を行うことで更なる普及を続けています。
さらに、OECDとFAOは、農業の業界は、労働慣行、生産性、環境、サプライチェーンの透明性等の面で課題が多いと捉え、農業部門に関与する企業行動のための「責任ある農業サプライチェーンのためのガイダンス(2016年)」を策定しました。人権及び労働者の権利や食品安全の基準を含めた環境保護と天然資源の持続可能な利用、及びアニマルウェルフェアなどの「企業の社会的責任」の方針を経営に取り込むことで、サプライチェーン全体で価値を創造していくということが推奨されるようになりました。
農協ではできない農業改革をしたいという思いから、退職して取り組んできた農業情報化ですが、たとえ通信技術を駆使して高度な手法が得られたとしても、その情報で結ぶべき生産段階から流通・加工・消費段階までのサプライチェーンで価値を創造するという各当事者の認識がなければ日本の農業は食産業として生き残れないかもしれません。
GAPの理念が行動を変える
20年前も現在も、日本のGAPが欧州の足元にも及ばないことの大きな原因は、日本ではGAPの実施事項や手法及び手続きばかりが重要視され、GAPの理念が共有されていないからだと思います。
農林水産省によれば、「GAPは良い農業の取組みという意味で、農業生産の各工程の実施、記録、点検、評価を行うことによる持続的な改善活動であり、食品の安全性向上、環境保全、労働安全の確保などに資するとともに、農業経営の改善や効率化につながる取組で、農業生産工程管理と呼ばれている」とのことです。
実施することや手順などはその通りですが、「なぜ」それらの行動が必要なのかということの本質である「GAPの理念」についての説明が不足しています。GAPの理念は、期待する農業の存在意義や使命を表す普遍的な価値観のことです。日本の農業者が農業生産工程管理の手法を選び、GAPのプロジェクトや個々のタスクを成し遂げることはとても上手にできます。しかし、理念が明確にされていなければ、認証を取得した後にどうするかの判断が難しくなります。
組織でも個人でも、仕事の理念が共有され、その価値観と行動が一致していれば、個人の満足感や仕事の意義が感じ易くなります。したがって、良い農業の取組みとしての手法や手順を示すだけではなく、それらの行動を支える理念を理解し、それに基づいて行動することがGAP達成のためには不可欠です。「何をするか、どのようにするかだけでなく、なぜそれをするのかを理解することが重要だ」ということです。「なぜ」が明らかであれば、「どのよう」すればよいか、そして「なに」をすべきかなど、GAP本来の目的達成の道筋を描くことができます。
世界のGAPは環境負荷低減型から環境再生型の農業へ
人類が地球で安全に暮らしていける限界水準を課題ごとに調べると、既に多くの分野で不可逆的な域を超えている(プラネタリー・バウンダリー)と言われています。とりわけ窒素とリンの化学的循環は人類にとって危機的状態になっているのです。その意味でも工業化を背景にした近代農業は、地球環境にダイナミックに関係する産業として持続可能な社会の発展にとって極めて重要な産業として位置づけられます。
世界のGAPは、進展する農業の工業化が地球環境に与える悪影響を減らすために、第二次農業革命以降の農業慣行の「Bad」を「Good」にする「GAP概念」として誕生し、「自然環境の汚染を最小源に抑える実践」によって持続可能性に貢献することを目指してきました。しかし、農業における環境負荷を削減するといういわゆる善と悪の二元論的「環境負荷低減型農業」では、その目的が達成できないことが明らかになってきました。
そのような状況で、肥料、農薬、石油などの外部からの投入資材を可能な限り減らすとともに、自然生態系の機能を活用して土壌を修復し、自然環境を回復することを目指す「リジェネラティブ農業」(環境再生型農業)が注目されています。この農業形態は、単に環境負荷を減らすだけではなく、生態学的なアプローチによって積極的に環境を再生することで持続可能な社会に貢献しようという活動です。
環境再生型農業の実現を目指して
日本生産者GAP協会では、米国のメリーランド大学と翻訳契約を結んで、全米で広く読まれている生態学的土壌管理の本 『Building Soils for Better Crops』 (和名:実践ガイド 生態学的土づくり)を翻訳出版(2023年11月)しました。『実践ガイド 生態学的土づくり』は、米国農務省が、未来に向けた持続可能な農業の構築をめざして、農家と農業改良普及員及び研究者に向けた持続可能な農業の手引書です。
本書は、世界の環境再生型農業をリードし、多くの実績を挙げている米国の農業実践ガイドですが、水田の土壌管理については実践も研究成果も掲載されていませんので、当協会が編集して、『実践ガイド 生態学的土づくり(水田編)』(仮称)を出版することになりました。日本では、農業耕作面積の半分以上が水田ですから、環境再生型農業の実践のためには「水田編」はなくてはならないガイドブックです。
それに、わが国の食料自給率はカロリーベースで38%、飼料自給率は28%(いずれも2022年)と、世界でも稀にみる「食料自給できない国」になっています。その中で、コメの自給率は約95%と言われていますから、日本農業の持続性のために「生態学的水田土壌管理論」が必要なのです。
目を世界に転じれば、地球人口は21世紀の今でも留まることなく増加し続け、飢餓人口も増加の一方です。世界の人口増加と食料増産の流れが自然環境の破壊につながるということからの持続可能な社会作りへの変容なのですから、生産性の高い農法と環境再生型農業を両立させなければなりません。持続可能な農業への移行は、選択肢ではなく絶対に必要なことです。
環境再生型農業は、土壌を修復・改善して健康にし、生物多様性を向上させ、生態系が炭素を吸収する能力を高めることに重点を置いています。その上で農業生産におけるコスト圧縮を図ることができれば、例えば、日本からの農産物輸出を可能にするでしょうし、それらの技術移転によるグローバルサウスでのコメ生産などで、日本農業が世界に貢献する適正農業規範になる可能性もあります。
GAP普及ニュースNo.79 2024/7