『実践ガイド 生態学的土づくり』 日本語版出版に当たって
GAP普及ニュース78号(2024/4)掲載
二宮正士
一般社団法人日本生産者GAP協会常務理事
東京大学農学生命科学研究科特任教授(名誉教授)
「みどりの食料システム戦略」に向けた必携の書
今回生産者GAP協会が出版しました『実践ガイド 生態学的土づくり』は、英名『BUILDING SOILS FOR BETTER CROPS』といって、直訳すると「より良い作物のための土作り」という本です。アメリカ農務省(USDA)下でのプロジェクト活動SARE(Sustainable Agriculture Research and Education:持続的農業の研究と教育,https://www.sare.org/)が編纂し第4版(https://www.sare.org/resources/building-soils-for-better-crops/)まで版を重ね、アメリカで長い間愛読されている本です。昨年翻訳して、農文協さんの力をお借りして出版することができました。元々がそうですけど日本語版も400ページを超える大著で、簡単に読むのは大変かもしれませんけれども、あえて翻訳したのは、本協会として共鳴できる内容かつ非常に分かりやすかったからでもあります。
ご承知のように「みどりの食料システム戦略」が、2021年5月に農水省からアナウンスされました。農業の持続性と生産性の両立を掲げながら、今後ほぼ30年にわたる長期的な農業政策です。かつてこれだけ長い農業政策が国から示されたことはないと思いますが、その中で重要なキーワードとして「土作り」という言葉が出てきます。土づくりという言葉は、農業に関係している我々にとっては、当たり前のように聞く言葉です。しかし、それを説明しろと言われて、体系的にきちんと説明できる人はどれだけいるでしょうか。私は農学系の研究者ですけども言葉は知っていても説明はできません。私から農家の皆さんに聞いてもいろいろな答えが返ってきて、勉強しようと思ってもなかなかその全貌がよくわからない、きちんと体系としてどうなっているかよくわからないのです。非専門家にとっては、ある意味言葉だけが先行しているというようなことかもしれません。そのような中、この本に出会い、これをちゃんと読めばそれなりにきちんと分かるなと、我々としても確信を持ち、翻訳出版して日本の多くの皆さんにも読んでいただこうと思った次第です。既に大学等でも英語版を使って講義をされているなど、いろいろな話を所々でお聞きしていますけれど、やはり日本語化しないとなかなか普及は難しいだろうということで、翻訳することにしたわけです。
先に述べたように大著なのでいきなりすべてを読破するのはなかなか大変ですけれど、部分的に読んでいって、そうなのかと理解するのもよろしいと思います。土づくりというと、繰り返しになりますけれど、何となくぼやっとは分かるけれども、実際その背景としての科学がどうなっているのか、技術的背景がどうなっているのかということを、これを読めばよくわかる、理由がわかる、そういった本になっているので、この「みどりの食料システム戦略」、あるいはそれを支える一環であるGAP等にとっては、極めて重要な書物だと思っています。 ご承知のようにアメリカの普及組織は、大学とかなり強く関係しています。そのため、大学やUSDA研究所の専門の研究者等が一緒になって版を重ねてきた本です。理論的にも技術的にも背景的にも、非常によく書かれた本です。ただ、一点だけやや残念というか仕方がないのですが、水稲については記述がありません。それでもこの本は非常によく勉強になると思います。我々としては、日本の研究者など関係者の皆さんと協力して、この本の作り方に習いながら、水稲版の土づくり本を出版できればと考えています。
本シンポジウムに向けて、SARE代表から寄せられたメッセージ(https://fagap.or.jp/seminarsymposium/symp2023/index.html#message)中で、「農家は私達の社会の基盤であり、土壌や水などの天然資源の最も重要な管理者である」と述べられています。また、「本書は土壌管理に関する知識を広め、実際の作業をしている農家との会話の指針となる最も役立つ出版物の一つであります」とも述べています。私達もその通りだと思っているところです。また、最近この本著者の1人が日本で行われた関連の学会でも、日本語翻訳出版のことを紹介していただいたというふうにも聞いています。
プラネタリー・バウンダリー(地球の限界)
先ほど「みどりの食料システム戦略」について述べましたが、EUの「ファーム・ツー・フォーク戦略」や、アメリカUSDAの「農業イノベーションアジェンダ」など、農業の持続性と生産性の両立を目指すための政策が、世界各国でこの数年間、さまざま出されています。EUが2030年目標であるのに対し,日本やアメリカは2050年目標という30年にわたるすごく長い実施期間の戦略ですが、大きな技術イノベーションがないと実現できないと思われます。
それら戦略の背景のひとつにあるのが、ご存知の方も多いと思いますけれども、「プラネタリー・バウンダリー(地球の限界)」(https://www.stockholmresilience.org/research/planetary-boundaries.html)という考え方です。15年ほど前にスウェーデンの研究所を中心に発表されました。それは、今我々が住んでいる地球システムの環境を不安定化する要因をいくつかのカテゴリーに分けて、それらがどのようなリスク状態にあるのかを定量的に判定するものです。それぞれのカテゴリーについて、安定しているのかより悪い状況に向かっているのかを定量的に示すもの考えてください。図は2023年に出た最新版です。赤の色が濃いほどリスクが高いと言うことになります。
例えば、新規の化学物質というカテゴリーは、プラスチックだとか農薬だとか地球上に今までにはなくて人工的に作ったものが地球環境にもたらすリスクです。この他、気候変動、生物多様性や生態系、土地利用、淡水利用、海水の酸性化、あるいは農業的に重要な窒素とかリンの循環などのカテゴリーがあります。2009年当初は、7つのカテゴリー領域を定義し、そのうちは3つのカテゴリーのリスクを判定しました。その後、9つのカテゴリーに増えましたが、最新版では、そのうちの6カテゴリーがおおきなリクスにあるという判定になっています。それらのリスク要因の原因を見てみると、非常に残念なのですけれども、ほとんどで農業が大なり小なり関係してしまっているというのが現状です。
「生態学的土づくり」で「地球環境と食料」の持続性
ご承知のように、20世紀農業というのは、食料の生産性を上げるという意味で大成功しました。しかし、多肥でも倒れにくく多収な品種育成の成功とともに、化学物質に大きく依存し、あるいは何も考えずに水を使いまくった、ちょっと極端な言い方をすれば、そのような農業で実現できたわけです。その結果として、残念ながら「プラネタリー・バウンダリー」で定義される多くのリクスに影響をおぼすことになってしましまいた。そのため、各国政府がこのままでは本当に持続的な農業生産ができなくなる、未来どころか我々の分まで脅かすかもしれないということで、慌てて動き出したという訳です。これまでも長い間、農業によるこのようなリスクは警告されてきましたが、ようやく世界の常識になったということです。
さて、農業の持続性ということを考えたときに、今私がお話した地球環境や生態系の話だけではなく、もう一方で、我々の食料の持続性も考えなくてはなりません。生産性はもちろんですが、その安全性や品質と栄養価もちゃんと十分担保できるものを用意する必要があります。あるいは、地球環境変動への対策も必須です。農業がメタンガスや亜酸化窒素を排出するなど、全体の地球温暖化の25%にも責任がある中、気候変動が原因と思われる異常気象などによる被害を被っているという非常に皮肉な状況にあるわけです。また、日本はもちろん途上国も含めて世界中で農業生産者の労働力不足が危惧されています。安定的で継続的な生産のためには、当然農家の安定収益ということも考えなければなりません。その他、農業資材確保も重要です。最近話題になっていますが、日本は肥料や種子の自給率がほとんどゼロいうとんでもない状況にあるわけです。
緑の地球を考えながら、我々の食料を持続的に安定的に担保するということは、ものすごく難しい問題に直面しているということになります。我々は知恵を絞ってどうにかこれを解決しながらやっているということです。その中で、今日話題になっている「土作り」ということを考えると、多くの点で問題解決に貢献できそうです。化学物質投入の軽減や生物多様性の向上はもちろんも、生産性にも関係するでしょう。場合によっては、地球温暖化ガスの発生も抑えられるわけで、気候変動緩和へも貢献できます。さらに、不耕起による労働力低減や、化学物質の投入量の低減でコストダウンもできるかもしれません。「土作り」という、多くのことに同時に貢献できるんだということを同時に理解しながら、今日、明日と2日間に渡って勉強して理解を深めるとともに、活発な議論ができたらいいなと思っているところです。
GAP普及ニュースNo.78 2024/4